Flakia's Novels

チタンの肌、曇天の心

感情の突沸を写し取るような作業、それが物書きである。
そして、己の思想を吐露する場、それが紙である。



『回廊に飾られた枯れた花を見て思った。彼らは、今際の際に何を思うのか。
彼らのように緩やかな死なら、まだ救いはあるのだろう。けれど、自覚もないまま命が途切れたとき、私はそれを知覚できるのか。あるいは…』

言葉を書いては消す。思いついた言葉を紙に記し、己の心情と照合させる。
だが、やはり合わない。これではない。不正確だ。

…だめだ、今は書けない。
筆を置く。頭をもたげるのは、言葉になる前の靄ばかり。

財布を引っ掴んで、外へ出た。
胸いっぱいに空気を吸うと、少し気が紛れた。
煉瓦張りの橋の上を、当てもなく歩く。

「お、嬢ちゃん、キネトスコープを覗いてご覧」

いつもなら、呼びかけに足を止めることはない。だが、“キネトスコープ”という妙な響きが引っかかった。

男のそばにあるのは、腰の高さほどの木製の箱だった。どこか古びていて、年季が入っている。重厚な真鍮の取っ手と、黒塗りの覗き穴。どこかの偉い発明家が作ったらしい。

木の表面は手垢と時の流れで艶を帯びていた。
覗き穴の縁には、何人もの人間が触れた痕跡がある。微かにオイルのような匂いもする。

男に金を渡す。彼は慣れた手つきで機械の側面を回すと、内部からカチリ、と乾いた音が鳴った。

恐る恐る覗き穴に目を近づける。レンズ越しに、暗がりが広がる。

そして、微かな震えとともに映像が動き出す。カタカタと小さな音が耳に届く。
フィルムは粗く、ところどころノイズが走るが、それでもはっきりと映っていた。

そこには、世界があった。



我が道を行く逸れ者たちは、皆、血の通った人間だった。その対極にいる彼女は、金属の肌をしていた。
白いチタン化合物。それを全身に塗布し、彼女は外に出る。
美しい彼女は、もしかしたら、ロボットとそう変わらないのかもしれない。

彼女の周囲には、小賢しい蟲がいた。奴は、僕のライバルだ。僕から彼女を奪おうとする。

彼女は、僕の憧れだった。彼女のすべてを愛していた。誰にも渡したくなかった。

__僕は霊の類だろう。彼女に取り憑こうとしているのだ。
恋人が欲しいというよりも、己の心を託せる守り人が欲しかった。そして、僕も誰かの心の守り人になれればいいと願っていた。

僕のアイデンティティは独特だ。けれど、同じ色であれば誰かに取り憑くことができる。
つまり僕は、彼女になりきることもできるし、彼女が僕になることもできる。ときに僕たちは一つであり、また、二つでもあるのだ。



陽の下にいるというのに、彼女の顔色は悪かった。
やはりチタンは身体に良くないのではないか?
最近は何でも化学品で、まったく嫌になる。

彼女の肩をさする。ピクリと震えた。

彼女は、生きている。
他の誰とも違って、生きている。

「フェイ、今日はもうお終いにしよう。それは明日やればいいさ」
「はい」
「やっぱり、顔色がよくないね。家に帰ろうか」

家に着き、画材を置く。今日は進まなかった。
けれど彼女と散歩できた、それで十分だ。

彼女が口を開く前に、僕は言う。
「寝なさい。今日は」

彼女は寝室に消えた。
彼女のいない夜は久々だ。人肌恋しいが、ちょうどいい。
蟲を仕留めようではないか。

蟲__奴は下劣だ。
美しい彼女の蜜を吸おうと、迷惑も顧みず這い回る。
彼女が美しいからこそ、奴はより穢らわしい。

早く、始末してしまいたい。だが、利用し尽くさないと勿体ない。

最後まで希望を持たせて、それから踏み潰すのだ。跡形もなく。
靴を退けたそこに血の海が流れるように、何度も。

彼女の眼は素晴らしい。あれに見つめられると、屈服してしまう。
人間離れした美貌と、威圧感。
__まさに神々しさ。それに、僕は焦がれていた。

けれど、同時に願ってもいた。
彼女が僕に縋るその瞬間を。
その身体と心を僕に開け渡し、ただ僕に縋る瞬間を。

僕は、幸せだ。
美しい彼女を隣にして、高い酒を煽っている。

男はほくそ笑み、万年筆を手に取る。

さて、計画を立てようか。
まずは蟲の反抗心を徹底的に壊すのだ。
そう、たとえば彼女の目の前で__



男の夢は、続かなかった。
目覚まし時計が人を夢の世界から引きずり出すように、男も現実に引き戻された。

鉄の扉を叩く音が、蜜月の終わりを告げる。

嗚呼、騒がしい。
カーテンの端を捲り、訪問者を睨みつける。

__蟲だ。
あの薄汚い、蟲だ。

思わず舌打ちが漏れた。
忌々しい。あのとき始末しておくべきだった。

蟲は、背後に手を振る。何だ?

…公安? なぜ?

奴は権力を利用して、公安を呼んだのか? これは、ただでは済まぬ。

鉄扉がガンガンと叩かれ、耳を突く。
武装した男たちは、本気で蹴破るつもりらしい。

馬鹿な。あれが簡単に壊れるわけが__

一際大きな爆音。
それから、複数の足音。

嘘だろう? 他の扉が破られる前に、彼女を連れて逃げねば。
2階に来る前に__

心拍、扉を叩く音、汗がじっとりと滲む。
無我夢中で最奥の部屋へ走る。一秒を争うのだから、必死だった。

取っ手に触れた瞬間、背後でカチャリと音がする。
振り向けば、銃口がこちらを向いていた。

「…おい、公安を連れて僕たちを襲うなんて、卑怯じゃないか。公安も、個人的な諍いに首を突っ込むなんて、正気か?」

「黙れ。フェイを返せ」

公安の男は銃口を逸らさない。
蟲は、僕を一瞥し、最奥の扉を開ける。

だめだ、だめだ、あの部屋には彼女が__僕だけのフェイがいる。

ベッドの上で、フェイは泣いていた。
可哀想に、大丈夫だ、もう僕が来たから…

フェイに向かって駆け出そうとするが、屈強な男に抑えつけられる。

「やめろ! 放せ!!」

喉が裂けるほど叫んだ。
その声に、フェイの肩が震える。

嗚呼、すまない。大きな声を出してしまった。

蟲は、フェイの手を取る。
フェイはそれを振り払わず、蟲を見つめた。

お前…お前…!
フェイに触れるな、穢れるだろう。

そう叫びたかった。けれど男たちが腹を押さえつけている。呼吸も満足にできない。

酸素が足りない。視界が掠れる。

フェイが、こちらを見た。
唇が動いた。

「愛してる__」

__暗転。



あの男には、ひた隠しにされた加害性があったのです。
私を尊重しているように見せかけて、それは対外的な体裁でしかなかった。決して、私への優しさではなかった。
あれを優しさとは言ってはいけない。

彼は、血が通っていなかった。
私を婚約者から引き剥がしておきながら、私を__

女は涙ぐむ。
その言葉の先にあるのは、尊厳を奪われた者の恨み節だろう。

刑事は眉を顰める。

__そこにあるのは哀憐か、あるいは軽蔑か。

考えたくなかった。あの刑事の感情なんて。



私はしばらく、衝撃で動けなかった。
だが、水を得た魚のように頭が働き始めた瞬間、最初に浮かんだ考えは__
「感情を吐露する場は、紙だけではなかった」ということだった。

…あんなに重い感情の原液を呑んだというのに、私は何を考えているんだ。
失笑が漏れる。

男の視線に気づく。

「嬢ちゃん、それ、どうだった?」
「えぇ……まあ、とても、悲しい話だと……」

感じたことは多かったはずなのに、口を開けば薄っぺらい言葉しか出なかった。
男は、ヘラリと笑う。

「そうかい。また観に来てくれよ」

頷いたが、もう二度と見ることはないだろう。
あれはあまりにも、私自身に重なりすぎた。

あの感情には、覚えがある。
少なくとも、私が女性である限り、もうあの映像を観てはいけない。
決して、観るべきではない。

目を伏せる。

私は恐れていたのだ、過去のトラウマを。

すべての男性が同じではないと理解している。
けれど、あまりにも、私がいた場所は……フェイと同じだった。

だから、男性が怖い。

あの時の恐怖が、今も心臓に張り付いている。
その記憶は、いつまでも風化しなかった。
本で気を紛らわせるには、限界があった。

空を見上げる。曇天だった。
まるで、私の人生のように。



【解説】
ここからは、『チタンの肌、曇天の心』の解説をしていきます。
本文を読んでからこちらを読んでいただけると、よりお楽しみいただけると思います。

この小説は、文章の装飾を工夫したため、読者によってさまざまな解釈が生まれるのではないかと期待しています。

まず、印象的な単語として「白いチタン化合物」が挙げられるでしょう。
これは、酸化チタン(TiO₂)を指しています。白く、光を強く反射するため、日焼け止めや化粧品などに使われる成分です。
しかしここでは、単なる物質名ではありません。
この表現は、女性としての身体を守る“装甲”であり、被害やトラウマから自己を防御する“皮膚の代替”でもあり、美しさを際立たせながらも近づけない人工性、そして“人間らしさ”と“人間であることの危うさ”を象徴するものとして描いています。

「美しい彼女は、もしかしたら、ロボットとそう変わらないのかもしれない。」
この一文は、書きながら反吐が出そうでした。
なぜならここには、「フェイ」が“人間らしい”ことへのある種の批判が込められており、言ってしまえば、“ロボット”のように完璧な美しさで、従順であってほしいという「僕」の身勝手な欲望が現れているからです。
このあたりから既に、「僕」の加害性が浮き彫りになっています。
それなのに、「チタンは身体に良くないのでは?」と、心配する発言が出てくる点に、彼自身の大きな矛盾も見えてきます。

「蟲」は、「フェイ」を「僕」から助け出そうとする存在です。
そのあだ名の通り、「僕」からは強く嫌われています。
読者によっては「王子様」的なキャラクターと受け取られるかもしれませんが、わたしは、それとは違うと考えています。
彼は決して王子様と呼べるほど丁寧ではなく、むしろ粗暴な側面もあります。
ただし、最終的に「フェイ」が彼にどう接したか__そこには彼女自身の“幸せ”の価値観が色濃く反映されています。

「__僕は霊の類 〜 二つでもあるのだ。」
このくだりは、「僕」が自己と他者の境界を見失っていることを示しています。
「霊の類」という表現からも分かる通り、彼は“フェイと一つになれる存在”だと信じ込んでいるのです。
しかし現実には、その幻想は一方通行であり、彼女の側にそうした意思は一切ないのです。ここに、彼の独善性と狂気が滲みます。

「彼女の顔色は悪かった。」
「彼女の肩をさする。ピクリと震えた。」
こうした描写や、「フェイ」のよそよそしい返答からも分かる通り、彼女は「僕」に対して決して良い印象を抱いてはいません。
物語の終盤、「僕」が大声を上げたとき、「フェイ」が肩を震わせるのも、恐怖の反応であると読み取れます。
ちなみに、「寝なさい。今日は」というセリフの「今日は」という言い回しには、彼らの関係を考察する余地があると考えます。

「僕」と「蟲」の関係については明示していないため、読み取りが難しいかもしれませんが、「僕」の「蟲」に対する激しい破壊願望は、明らかに常軌を逸しています。
そこには、単なる嫉妬や恨みを超えた、強烈な加害性が見え隠れしています。

「彼女は、生きている。他の誰とも違って、生きている。」
「僕」にとって、生きているのは「フェイ」だけであり、それ以外の人間は、もはや“死人”のように見えているのです。
その盲目的な執着は、恐ろしくもあり、もし彼に加害性がなかったなら…と思わせるほどに、一途でもあります。

最後に、「フェイ」が口にした「愛してる__」は、わたしは幻覚だと考えています。
ただし、誘拐犯に親愛を抱いてしまう「ストックホルム症候群」の可能性もあるため、一概には言えません。
しかし、あの酸欠状態で、「フェイ」の口の動きや声の意味を適切に理解することは難しいでしょう。
ここは読者に解釈を委ねたい部分です。



まだ他にも考察の余地は多く残っていますが、あまりに長くなってしまいそうなので、今回はこの辺りで失礼します。もし気になる点がありましたら、気軽にお尋ねください。