第一章 — 出会い —
春の光は、いつも少し眩しい。春の風は、まだ少し冷たい。自転車を漕ぎながら、そんなことを考えていた。
高校三年生の私は、大学受験を控えていた。だからこそ、しっかり勉強に打ち込まなければならない。今日は英会話のレッスンを受けるため、いつもの道を自転車で走っていた。
横開きのドアを開け、先生の家に入る。その日は、いつもと違う賑やかな声が廊下の向こうから聞こえてきた。少し緊張しながら近づく。
真っ白なシャツに、少し乱れた前髪、涼しげな眼差し。
初めて見るはずなのに、なぜかずっと前から知っていたような気がした。不思議な錯覚だった。
彼は、◾️大学に通っていると言った。学力的にも、距離的にも、遠くにある世界の人だった。
けれど、彼の声は柔らかく、言葉は温かく、そっと手を差し伸べてくれるような優しさがあった。
__私は、心を奪われた。
ただの憧れではなかった。ただの恋でもなかった。
「ああ、私もこの人の世界に行きたい」
気づけば、そんな強い願いが胸に灯っていた。
あの日から、私の時間は動き始めた。授業が終わればすぐに机に向かい、分厚い参考書に向き合った。
たまに、彼とメッセージを交わした。
先生が私の作曲の趣味を話題に出したことで、たまたま彼も作曲をしていることがわかり、連絡先を交換することになったのだ。
彼の文章は、年上の男性らしからぬ柔らかさに満ちていた。文末まで丁寧に紡がれた言葉は、どこか詩のようで、私の心を打ち抜いた。
私は、彼に恋をした。
けれど、現実は厳しかった。私の成績は平均より上とはいえ、名門である◾️大学には届かない。行くには浪人するしかないだろう。
でも、浪人はしたくなかった。私にはその苦しさに耐える自信がなかった。
__だったら、大学院で彼と同じ場所に行くのはどうだろう。それが、今の私にとって最も自然な未来に思えた。
◾️大学院。
その文字が、私の未来のすべてになった。
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第二章 — 匂い —
受験を無事に終え、私は地元の大学に進学した。そして、迷わず軽音サークルに入った。
音楽が好きだったから。それが一番の理由だった。
「#春から〇〇大学」
そんなハッシュタグを使って、SNSで同級生とつながり、自然とバンドを組む話が持ち上がった。いくつもある軽音サークルの中で、彼らと同じサークルを選ぶことにした。
初めて顔を出した部会の日。決して狭いわけではない教室だったが、詰め込まれた学生たちの熱気と、充満する汗とタバコの匂いに、少しだけ息苦しさを感じた。
ギターを抱えた男子が笑い声をあげ、キーボードを壁に立てかけた学生が缶コーヒーを手に話し込んでいる。教壇の前に立った部長らしき人が話し始めても、誰もすぐには静かにならなかった。
__あれ?
胸の奥で、小さな違和感が芽生えた。
誰かを否定したいわけではない。でも、ここは少し、私が求めていた場所とは違う気がした。
そんな空気のなかで、私は一つだけ心に決めた。
「バンドだけをやろう」
飲み会も、親睦イベントも、参加しない。ただ、演奏にだけ集中する。
それでいい。いや、それがいい。
私は、憧れの人がいる◾️大学院に進学したい。だから、無駄なことに時間を使っている余裕はなかった。
音楽と、勉強。それだけに集中する。
それが、私にできる唯一の選択だった。
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第三章 — 音楽に集中するということ —
バンド活動は順調だった。私がボーカルを担当し、ギター、ベース、ドラムが揃う。
まだ技術は拙いけれど、音が少しずつ形になっていくのが嬉しかった。
だけど、心のどこかで、ずっと孤独を感じていた。
みんなは飲み会に行った。私も誘われることはあったけれど、いつも「予定があって」と曖昧に断っていた。
それでも、不思議と誰にも嫌われなかった。
むしろ、ある同期の女性は何度も声をかけてきた。
「きみ、本当にかっこいいよね。バンドだけに集中してるところとか」
「私たちも、もっとちゃんとやればよかったなって思うよ」
彼女はそう言って、柔らかく笑った。その笑顔の奥に、ほんの少しだけ影が差しているように見えた。
私は、なぜそこまで褒められるのか分からなかった。私にとっては、音楽に集中するのは当たり前のことだった。
サークルに入った目的が演奏なら、そこに力を注ぐのは当然だと思っていた。
でも、彼女たちにとっては、それが簡単なことではなかったのかもしれない。たぶん、このときには既に、サークルの中心には音楽以外の何かが流れていたのだろう。
私はその変化に気づかず、ただ静かにマイクの前に立ち続けていた。
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第四章 — 裏の顔 —
彼の名前は、照山くん。
同じバンドではなかったが、リハーサルの帰り道や、イベントの機材運びなどで、自然と何度か会話を交わすようになった。
彼はマンドリンを担当していた。
軽音サークルの中では珍しい楽器で、彼はその存在だけで少し浮いていた。
でも、そのことを気にする様子もなく、穏やかに微笑んでいた。
ある夜、ライブの片付けが終わったあと。人気のないホールの裏手で、照山くんがふと、つぶやいた。
「きみって、本当に音楽だけやってるよね。……それ、すごくいいと思うよ」
突然の言葉に、私は首をかしげた。
そういえば、前にも似たようなことを誰かに言われた気がする。
「ん……んー、ありがとう」
軽い気持ちで礼を言った。
照山くんはしばらく沈黙したあと、静かに言葉を続けた。
「ここ……たぶん、あまり綺麗な場所じゃないんだ」
意味がわからなかった。
彼は、遠くを見るような目で、淡々と語った。
飲み会、イベント、その裏で交わされる関係。誰と誰が付き合って、別れて、夜、誰かのもとへ行く。
「新一年生はまだ平和だと思うけど……上の代は、ね」
彼の声は、どこか寂しげだった。
「きみは、知らないままでいいよ」
それ以上、彼は何も言わなかった。私も、訊かなかった。
ただ、胸の奥に、冷たい何かがゆっくりと沈んでいった。
同時に、自分が巻き込まれずに済んだことへの安堵。
女である私が、もしかしたら被るはずだったかもしれない不幸を避けられたという、動物的な本能が発する安心感。
そして、去年の春、彼__最初に出会った憧れの人の顔がふいに浮かんだ。
私は彼に恋をしていた。でも結局、付き合うことはなかった。振られたわけではない。
悲しいことに、そもそも、私は告白するところにすら辿り着けなかったのだ。
それでも、私は彼が好きだった。
たとえ、返信が遅くても。たとえ、彼が自分のことをあまり語ってくれなくても。
そういう部分も含めて、彼のことを愛していた。
けれど、決定的な出来事があった。
彼に教えてもらった作曲の動画投稿サイト。そのアカウントに紐づけられていたSNS。
彼は毎日SNSを更新していた。けれど、私への返信は、早くて一日後。平均して三日に一度。ひどいときは一週間。
「忙しいから返信できない」
そう思おうとした。けれど、どうでもいいことを頻繁につぶやく時間があるのに、私には一週間も返さない。
その事実が、何よりも辛かった。
それはきっと、彼にとっての私の優先順位を示していた。
私は彼にとって、全くもって特別ではなかったのだ。
ショックだった。あんなに誰かに恋をしたのは初めてで、先生の計らいで得られた出会いが、まるで運命のように思えたから。
この失恋は、私にとって深い傷となった。
だから、恋なんてしなければよかった__そう思っていたのだ。さっきまでは。
でも、今になって思う。あの憧れと、あの恋が、結果的に私を守ってくれたのかもしれない。
失恋のせいで、心に深い傷を負った、けれど、身体の傷は負わずに済んだ。
彼がいたから、私はバンドだけに集中した。
彼がいたから、私は無駄な付き合いを避けて、努力を続けられた。
彼の態度に傷ついた。
けれど、もしあの時、彼に出会っていなかったら__私は今ごろ、別の場所で、別の痛みに傷ついていたかもしれない。
少し前まで彼を嫌いになりかけていた。でも今、彼に救われたのかもしれないと、初めて思えた。
結果的には、彼に恋してよかったのかもしれない。昨日までの私なら、そんな結論、きっと認めなかっただろうけれど。
人生って、本当にわからない。どう転ぶかなんて、なってみなければわからないものだ。
思わず笑ってしまった。
私はきっと、運が良かったのだ。
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第五章 — 静かな決意 —
あの日から、私の目に映る景色は、ほんの少しだけ変わった。
相変わらず騒がしい先輩たち。肩を組み合って笑う同期たち。
目が合えば、どこかぎこちなく笑いかけてくる女性たち。
全部が、なにかの表面だけをなぞっているように見えた。だけど私は、知らないふりをした。
バンドのリハーサル。ステージでの音合わせ。
その一瞬に、すべてをかける。
__音楽だけ。
そう決めた。それだけは、絶対に守ると誓った。
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夕方、機材を片付けていたときのこと。ある同期の女性が、ふと笑って言った。
「きみって、本当にバンドだけだよね。かっこいいなあ」
私は、小さく笑い返した。
本当は、知っている。知ってしまった。
でも、ここでそれを暴くつもりはない。
彼女は、彼女なりに生きている。ただ、もう戻れない場所に行ってしまっただけだ。
私は、私の道を行く。
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次のライブの予定が決まった。
私はスケジュール帳に、「出演」と淡々と書き込む。
周囲がどんな空気に染まっていても、どんな目で見られようとも、私は変わらない。
たとえ、いつか、たった一人になったとしても。
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最終章 — 夜の雨、私の道 —
ライブの夜、雨が降っていた。
ステージの照明が落ちたあと、観客席に残った拍手の余韻が、しばらく耳に残っていた。
私は、マイクのコードを巻きながら、まわりの音に耳を澄ませる。
誰かが笑い、誰かがこのあとの飲み会の話をしている。
私は、それらの声を背中に受けながら、楽屋をあとにした。
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建物の外に出ると、細かな雨が髪やジャケットに静かに染み込んできた。
街灯の光が滲んで、夜の世界をやわらかく照らす。
私はひとり、夜の道を歩き出す。
ポケットからスマホを取り出し、スケジュールアプリを開く。
ライブ、勉強、制作、作曲。私の未来には、やるべきことがたくさんある。
でも、それでいい。
私は、誰にも合わせない。誰かの空気にも、流されない。
私は、私のためにここにいる。
静かに、心の奥からそう思えた。
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春の日のことを思い出した。英会話の先生の家で、彼と出会ったあの日。
彼に憧れた自分。彼のいる世界に向かって走り出した自分。
そして今、真実を知りながら、なお前を向いている自分。
きっと、全部__無駄じゃなかった。
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雨音だけが静かに響く夜道を、私は、まっすぐに歩いていった。
これからもきっと、私の人生には、いくつもの雨が__音が降り注ぐだろう。
でも私は、自分だけの音を信じて、生きていく。
胸の奥に、静かな光が灯る。
それが、私の夜のなかを、やさしく照らしていた。