「ロギンス、ロギンス!」
名を呼ばれて顔を上げると、隊長が腕を組んでこちらを見ていた。
どうやら昨日の寝不足が祟ったらしい。意識が、夢と現の狭間に引きずり込まれていた。
「申し訳ありません、隊長。ご用件は?」
隊長はジロリと睨みつけ、重く口を開く。
「ローザという婦人がお前を訪ねてきた。第二応接室に通してある。早く行け。」
ローザ……まさか、あのローザか?珍しいこともあるものだ。
「承知しました。ありがとうございます。」
応接室の重い扉を開けると、暗い茶髪をひとつに束ねた女が椅子に腰掛けていた。間違いない、ローザだった。
「急に訪ねてしまって、ごめんなさい。」
彼女はじっとこちらを見つめている。頬はやや痩け、顔色も冴えない。
「久しぶりだね、ローザ。」
「ええ。」
それきり、沈黙が降りた。
私は部屋の隅にあるポットからコーヒーを淹れ、彼女の前に差し出す。
ローザは虚ろな目をこちらに向け、ぽつりと呟いた。
「あなたなら……助けてくれると思って……」
どこか、覚悟を決めたような表情だった。
「助けてほしいの。私を。」
「ずいぶん唐突だな。何があったのか、話してもらえないと、手の出しようがないよ。」
ローザは迷子のような目でこちらを見つめ、言葉を選びながら語り始めた。
男と暮らしていたこと。捨て犬を拾い、三人で家族のように過ごしていたこと。
犬は灰色の毛並みだったが、風呂に入れると黄金色の毛が現れた。撫でれば嬉しそうにじゃれついてきたという。
「灰色から……金色に?」
つい口を挟んでしまう。
「ええ。濡れた毛をタオルで拭いているうちに、だんだん金色になっていったの。びっくりしたわ」
彼女は少し笑ってそう言ったが、その笑顔はすぐに曇った。
灰色から金色__そんな変わり方もあるのか、と、なぜか胸の奥がざわついた。
……話が逸れている。私は頭の中で流れを引き戻す。
穏やかな生活は、男の失踪によって崩れた。
もともと酒癖の悪い男で、過去にも問題を起こしていたという。
最初はまたどこかで酔いつぶれているのだろうと高を括っていたが、いくら待っても戻らない。しびれを切らし、近所の治安維持隊に相談した。
「それが、間違いだったのかもしれない。あのとき、何もしなければ……」
「でも、相談しなければ、きっと帰ってこなかったんだろう?」
「……そうかもしれない。」
「なら、仕方ないさ。で、今日ここに来たのは__何のため?」
「……違うの。彼が見つかって、それで終わりじゃなかったの。」
彼女は口元を引き結び、しばらく目を伏せていたが、静かに続けた。
「浮気をしていたの。あの人……」
既婚者で"それ"をするとは、呆れたものだ。
「それは災難だったな。でも、なぜその話を私に?」
それが解せなかった。
ローザとの縁は、四年前に切れたはずだ。私が告白し、そして振られた、あの日に。
当時の私は雑技団員だった。金銭的にも不安定で、将来の見通しはなかった。
それでも、彼女を本気で想っていた。長く胸に秘めた想いを、ようやく打ち明けた。
結果は惨敗だった。
気まずさに耐えられず、私は雑技団を辞め、軍へ入った。
もし振られていなければ、今のように激務に追われる生活を送ってはいなかったかもしれない。
目の前のローザはやつれていた。だが、きっと彼女から見た私も同じように見えるのだろう。
彼女は口を開きかけては閉じ、迷っているようだった。きっと、言いにくいことなのだろう。
私は黙って待つしかなかった。
やがて、彼女はおずおずと口を開く。
「……あなた、私のことが好きだったでしょう? だから……付き合ってくれるんじゃないかと思って……」
言葉が、空気に沈んだ。
あまりに唐突で、返事ができなかった。
確かに彼女を想っていた。今も、面影の残る彼女を前に、心が揺れていた。
けれど、その申し出には、どうしても疑念が拭えなかった。
過去の私ではなく、今の立場や収入を見ての選択ではないか。
酒に溺れる男より、安定した生活を送る軍人を選びたいのではないか__と。
そんなことを考えてしまう自分に、嫌気が差す。
ローザはそんな打算で動く人じゃない……そう思いたかった。
けれど、一度芽生えた疑念は、紙に落ちたインクのようにじわじわと広がっていく。
私は試すように口を開いた。
「……雑技団にいた頃、私はローザに告白したね。……覚えてる?」
「……ええ。ちゃんと返事ができなくて、ごめんなさい。」
「いや、いいんだ。覚えてくれてたなら。それでね、今でも引っかかってることがあるんだ。」
「なにかしら?」
「もし、あの頃の"俺"だったら__ローザは、今日みたいに訪ねてきてくれた?」
ローザの表情がわずかに強張る。
その一瞬で、私はすべてを察してしまった。
……だめだ。
彼女が見ているのは、"俺"ではない。今の"私"なのだ。
……"俺"は雑技団時代、きっと灰色の犬だったんだろう。
もしかしたら、今の"私"は金色に見えているのかもしれない。
だとしたら、それは……本当に"私"を見ているのか?
胸の奥が焼けるように痛む。
ああ……私は、まだローザをを愛していたのか。
視界の霞みを堪えて、深く息を吐いた。
恋の自覚は、私にとっていつも、何らかの別れとセットだった。
雑技団のときもそうだ。彼女を好きだと自覚して、そして、夢を手放してしまった。
彼女を責めたくなる。でも、それは違う。雑技団を辞めたのは、私の選択だ。
首を振り、席を立つ。
「悪いけど、仕事が立て込んでてね。そろそろ戻らないと隊長に叱られる。出口まで送ろうか?」
「……いいえ。こんなことを言ってしまって、ごめんなさい。」
彼女はうつむき、諦めたような声を絞り出す。
「じゃあ、私は戻るよ。来てくれてありがとう、ローザ。」
「……うん。こちらこそ、ありがとう。また。」
彼女のその言葉に、私は何も返さなかった。
重い扉を閉める。
__きっと、これで良かったのだ。
いや、そう思いたかっただけかもしれない。
彼女は本当に私を選んだのか、それとも……。
考えれば考えるほど、気分が悪くなっていった。
どこにも、救いがない。
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閉ざされた扉を見つめる。
確かに、彼の言ったことは嘘ではなかった。私は夫であった男を見限り、かつて私に想いを寄せていた彼のもとを訪ねた。それは否定しない。
でも、彼が軍人である必要なんて、どこにもなかった。
あのとき私が彼を振ったのは、雑技団員としての忙しさを知っていたからだった。稽古に明け暮れ、事務に追われ、彼が私や、いずれできるかもしれない子どもと過ごす時間は、ほとんどなかっただろうと。
お金のことも、懸念のひとつではあったけれど……それより、未来を考えるほどに、彼を選べなくなっていったのだ。
ふと気づいた。
私は、あのとき彼との未来を真剣に考えていたのだと。
胸に手を当てる。
もしかしたら……私は、彼に恋をしていたのかもしれない。ただ、その恋を続けるには障害が多すぎただけで。
思い返せば、相性は悪くなかった。雑技団を見に行ったとき、ワイヤーの上を歩いていた彼が、妙に目を引いた。じっと見つめていたら、目が合って__そこから友達になって、よく一緒に出かけるようになった。
食の好みも、音楽の趣味も似ていた。
「私たち、まるで双子みたいね」なんて、笑いあった記憶もある。
目を閉じる。
もう彼は、あの頃のように鉄の棒の上を歩くことはない。彼はすでに、地に足をつけてしまったのだから。
もし、あのとき私が振り向いていたら__別の未来があったのだろうか。いいえ、違うわ。
彼が“金の毛並みを持つ犬”になったのは、きっと、私が彼をこっぴどく振ったからだ。
彼が安定を手にしたのは、恋心も、夢も、全部断ち切ったからこそ、なのだ。
軍人になったから来たわけじゃない。あの頃の彼を、私は、決して灰色だなんて思っていなかった。
ただ、未来を考えると、その毛並みを守れる自信がなかっただけで。
金色はきっと、私が置いてきた夢の残骸から生まれた色なのだ。
気づけば、頬に涙が伝っていた。
私が好きだった彼は、もうどこにもいなかった。
私は拾うことで、幸せを見出そうとした。でも、それは賭けみたいなものだった。
うまくいくときもあるけれど、大抵は、うまくいかない。
「優しさを、消費されるのも疲れたわ……」
彼と話したとき、一瞬、顔が強張った。あの一瞬で、私は見誤られたのだと思う。
彼の中で私は、金にがめつい女になってしまったのだ。
彼が恋した“過去の私”は、もうここにはいないと__。
それならそれで、構わない。
袖で涙を拭う。
でも、あのとき私が彼を振ったのは、私が彼にふさわしくなかったからで__そして彼もまた、私にふさわしくなかったから。
そう。それだけのことだった。