私は物書きであるからこそ、自分の書く文章が偏りのあるものにならぬよう、人一倍気をつけている。
私は他人の文章に影響されやすい。他人が紡ぐ言葉を、馬鹿みたいに真正面から受け取ってしまう。それは私の美徳であり、同時に弱点でもある。
人を尊重するというのは、諸刃の剣だ。正しい人を尊重できれば、私は傷つかずに済む。けれど、そうでない人を尊重してしまったとき、私はどんな未来を迎えるのか。想像したくない。
分かりやすい例を出したいと思う。だけど、過去の記憶を遡ると古傷が痛んで、それについては言及したくなくなる。いや、正直に言えば、まだ言葉にすらできないのだ。
あれは、だめだ。触れてはいけない。その痛みを呼び戻してしまったら、代償として私の心が死んでしまう。私はまだ、あの苦しみを昇華しきれていない。今はだめだ。
私が書く文章は私の世界を反映している。きっと、それは他の物書きにとっても同じだろう。その世界の法は、創造者である私によって定められる。統治者は私。支配者も、私だ。
その世界は私が生きてきた現実の断片でできている。言ってしまえば、それは「この世界の型落ち版」なのかもしれない。
この前、たまたま自分の小説を読み返す機会があった。そこで、ふと思ったことがある。
一つ目。
私は、言葉に恋をしている。
人間が誰かに恋をするように、私は言葉に恋をしている。これに気づいたのは、つい最近だ。
言葉は、本当に素晴らしい。私はその魅力に取り憑かれている。言葉を使える生き物として生まれたことを、私は本当に幸運だと思っている。
二つ目。
私は「愛」という概念と深くつながっているということ。
それは、これまでの経験だったり、思想だったり、関心だったり。どんな場面でも、「愛」が私にちょっかいをかけてくるのだ。
私は今、19歳。たった19年しか生きていないけれど、他の人より「愛」について考える人生だったと思っている。
……まぁ、いろいろあったから。他人に言えないような思いを抱えてきたから。一般論が通用しないような環境にいたから。つまり、そういう――「愛」にまつわる経験をしてきたから。
理由を挙げればキリがない。けれど、私は不幸自慢がしたいわけじゃない。もちろん、幸福自慢がしたいわけでもない。
他人は他人、私は私。そこに「不幸」や「幸福」といった、あいまいな価値観を持ち込むつもりはない。気になるようなら、聞き流してくれて構わない。ただ、「他人は他人、私は私」という前提が通じない相手は、面倒だ。だからこそ、あえて言う。私の環境は、あなたが想像する以上に特殊だった。
私たち人間は、他人に影響を受けて生きている。それは、価値観だったり、信念だったり、
あるいはもっと身近なもの。話し方や、身振り手振りだったりする。
たとえば、自分の欲求を伝えるとき。命令口調や、支配的な言い方をする人がいる。
私は思う。彼らは、それが「普通」とされる環境で育ったのか?それとも、自分の立場を勘違いした、目の曇ったどうしようもない阿呆なのか?あるいは、そうすることで物事が上手く運ぶと本気で思っているのか。
人が追い詰められたとき、選択肢は大きく二つに分かれる。一つは、相手を殺す。もう一つは、自分が殺される。
ここでは極端な言い方になってしまったけれど、これは命に限った話ではない。もっと簡単に言えば、自分が得をする選択を取るか、損をする選択を取るか。広義に捉えれば、それは同じことだ。
人間というのは、極限状態でこそ本性が表れる。私はそれを知っている。ずっとこの目で、見てきたのだから。
人間の醜さは、理解している。けれど、私が「人間」として生まれた以上、彼らを愛したいと思っていた。
だから、私は人を愛した。それでも、同時に一部の人間を、強く憎んでいた。私には、彼らに踏みにじられた過去がある。どうしようもなく、苦しめられた記憶がある。
人に優しい人間は、今も昔も、私は好きだ。私は彼らの幸せを、誰よりも願っている。彼らは、愛されるべき存在だと、私は思っている。けれど、他人を踏みつけ、思いやりの心すら持たない者たちはどうだろう?
彼らは他人の養分を吸い取って、自分の糧にしているだけの、下劣な存在だ。そんな者たちが、本当に「救われるべき」なのか?「愛されるべき」なのか?平等だとか、人権だとか、陳腐な言葉を持ち出して、それで本当に肯定できるのか。
これは、私個人の恨みが混ざっているかもしれない。だけど私は思う。彼らは、愛されるべきではない。少なくとも、私は愛したくない。
彼らにも、救いようのない過去があったのかもしれない。私と同じように、苦しみを抱えていたのかもしれない。それで価値観が歪んだというのなら、私は同情する。でも、だからといって、その歪みを他人に押し付けていい理由にはならない。
己の不幸を他人に押し付けることこそ、一番の悪だ。
不幸を他人に押し付けると、何が起こるのか。鬱々とした苦しみに苛まれる人が、また一人増える。それは、きっと正しい。だけど――それだけじゃない。
そこには、不幸の連鎖が生まれる。苦しみが、また誰かを苦しめていく。静かに、でも確実に、広がっていく。
では、不幸に苦しむ私たちは、どうすればいいのか。答えは、一つ。自分を愛すのだ。腹の底に蠢く不幸を消化して、何かに昇華するしかない。
このとき、決して「他人に愛されたい」なんて、甘えた幻想を抱いてはいけない。他人に愛されても自分の苦しみは消えない。いや、消えたような気がするかもしれないが――それは、ただの幻想で、麻酔のようなものだ。痛みを一時的に隠しても、傷はいつまでもそこにあり続けるのだ。
私たち人間は、支え合って生きる生き物だ。だけどいつだって一人だ。死ぬときは、誰もが一人なのだ。だから、自分を正確に理解できるのは自分だけ。少なくとも私はそうだった。
私はまだ19年しか生きていない。「判断するには早い」と言われれば、その通りかもしれない。人生百年時代というのなら、あと八十年、生きて考えるべきかもしれない。
でも私は、もう疲れてしまった。自分を開示することには、うんざりしている。理解力のない人間に傷つけられるのは、もう嫌だ。
過去、私は考えたことがある。たくさんの人に自分を見せれば、その中の一人くらいは、私を理解してくれるんじゃないかって。完全な理解じゃなくてもいい。少なくとも、尊重してくれる人がいるんじゃないかって。
今は、インターネットという便利なものがある。匿名で、正直な気持ちを吐き出せる場所もある。私はそこで、本音を語った。たくさんの人と関わった。お話をした。だけど、だめだった。
私が出会った人たちは、誰一人として、理解力のかけらもなかった。運が悪かったのかもしれない。でも、それにしても__。
他人事だからって、見当違いな言葉で励ましてくる。ろくに話も聞かないくせに、自分の苦労話は達者に語る。飛躍した理屈で、正論とも言えない愚論を押しつけてくる。
もう、たくさんだ。他人に踏みにじられるのは、うんざりなんだ。
人間に絶望した、あのときの感情。それは、間違ってはいなかった。たぶん私は、はじめから誰かに理解されようと願うべきではなかったのだ。
そこから、少しだけ、生きやすくなった。
人間は私を理解しない。それで構わない。どうでもいい。私には、もう関係のない話だ。
とはいえ、他人の話を聞く機会は今も多い。私の好きな人――友人の話なら楽しいけれど、よく知らない誰かの話は、正直、少し面倒だと思うこともある。もちろん、それを顔や言葉には出さない。それくらいの気遣いは、まだできる。
私は今も、「愛」という概念に、苦手意識を抱いている。どうにも、私には縁のないものだと思うのだ。もし、私自身が理解されないのなら、そこに「愛」があるのかどうか、私には判断ができない。私にとって「愛」を測る唯一の方法は、“理解”だから。
でも、きっと、それは人によって違う。誰かにとっての「愛」は、社会的なステータスかもしれない。相手の肩書きや年収や顔が、そのまま「愛」になる。あるいは、芸術的な個性に惹かれる人もいる。自分の「好き」とぴったり重なるような、音楽や絵画、詩、手芸……そういったものを生み出せる相手に、恋をする。それを「愛」と呼ぶ人もいる。
また、性的な欲求を満たしてくれる存在を「愛」だと錯覚する人もいる。他にも例を挙げればキリがない。
だけど結局、誰もが何かしらの「条件」を求めていて、それを「愛」と呼んでいる。あるいは、「愛」と混同している。きっと、そういうことなんだろう。
どうにも夢のない話だ。だけど、私は思う。これが本質なんじゃないかって。
今の私には、そうやって考え続けることしかできない。それでも、いいと思っている。
まだ、私は生きているのだから。