第1章:再起動、スタンプ
春の終わり。気が滅入るような夜だった。
グループLINE「3年1組」の未読メッセージは、いつもの1桁を超え、50、70、そして100を超えていた。
卒業から一年。ほとんど誰も話さなくなったこの空間が、突如として息を吹き返したのだ。
発端は、湯木のメッセージだった。スクロールが必要なほどの長文。改行が多く、テンポが狂っている。一通り目を通して、私は言葉を失った。
──「先生を訴えるかもしれません」──
誰も言葉を返さない。彼女の文章には、あまりに重いナニカがある気がしたのだ。ただ、目は画面に釘付けになっていた。
何時間も続いた沈黙を破ったのは、想定外の人物だった。山戸がスタンプを送ったのだ。それはアイドルの女の子が泣きながら微笑むスタンプで、明らかに、この状況とは釣り合っていない。しかしその瞬間、グループ内に微かな「緩み」が生まれた。
ポツポツと他の人たちもスタンプを送る。
「頑張って」
「ファイト」
みんながようやく動き出す。山戸のスタンプは意図してか無意識か、空気を“ずらした”のだ。けれどそれは序章にすぎなかった。
翌日、湯木がスクリーンショットを添えて再びメッセージを投下した。そう、あえて投下という言葉を使ったのは、それは私に大きな衝撃をもたらしたからだ。そのスクショは、高校時代の彼女の研究班のグループのLINEのやりとり。そこに、彼女がかつて恋人だった井志の存在が映り込んでいた。
「◾️大学の医学博士を志しています」
湯木の言葉だ。けれどその直前に、ひとつの表示があった。
「井志が退出しました」
誰よりも彼女に近かったはずの彼が、彼女のメッセージを見て、何も言わずにグループを去った。その沈黙こそが、湯木の中で最も許せない裏切りだったのかもしれない。
スクショはまるで告発文だった。けれどその矛先は、私たち全体というよりも、たった一人、井志に向けられているように見えた。
「これ…誰に向けて送ってるんだろうね」
隣で親友がぽつりと呟いたけれど、私は既にその答えを知っている気がしていた。
そしてその日の午後、またしても湯木が重たい言葉を送ってきた。
「裏切りすぎてしんどい」
また、沈黙が広かった。
数時間後、ただ一人だけが動いた。
山戸だった。彼は、昨日とまったく同じアイドルスタンプを投下した。前と同じ、泣きながら笑っている女の子。
続けて、今度は「ファイト!」のポーズをしたパンダのキャラクター。
私は思わず笑ってしまった。やっぱり、彼は山戸だった。
何の役にも立たないのに、なぜか場を動かしてしまう、奇跡のスタンプ男。
グループLINEに広がるどうしようもない空気には、どうしようもない彼が、なぜか必要だった。
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第2章:研究班という名の密室
思い返せば、あの研究班は最初からどこか、閉じられた空気を纏っていた気がする。
班の人数は4人。男性が3人で、女性が1人。
形式上は「ランダムに選ばれたメンバー」とされていたが、実際は先生の主観による組み合わせだったという噂があった。
湯木はその班にいた。そして井志も。二人は高二の夏前から付き合いはじめたらしい。いわゆる“班内恋愛”だった。
最初はうまくいっていた。彼女が彼にノートを貸す。彼が彼女の代わりに発表資料を作る。二人は、本当にうまくやっていた……ように見えた。
研究班というのは不思議な場所だ。1日2時間、週3日。全員が同じ狭い空間で、テーマに沿って討論し、仮説を立て、資料を作る。その過程で、誰が何をして、何をしていないかはすぐに露呈する。そして、井志はほとんど何もしなかった。
彼は人当たりがよく、口数も多い方だった。でも、実際に手を動かすことはなかった。
湯木は笑って受け止めた。
「私がやったほうが早いし」
「彼、発表は上手だから」
しかし、時が経つにつれて少しずつ変化が訪れた。負担が湯木に偏るようになったのだ。
他のメンバーは、その違和感に気づき始めた。そしてあるとき、湯木は班内で軽く指摘した。
「井志くん、今週のまとめ、できてる?」
笑いながら、でも目は真剣だった。
井志は一瞬固まったあと、「あー、まだ途中」とだけ返した。それから空気が変わった。
彼は不機嫌になり、あからさまに冷たくなった。LINEの返信が遅くなる。グループLINEでもスタンプだけを送るようになった。それでも、湯木は黙って耐えた。
班の中で、誰もはっきりとは言わなかった。けれど、“この班には何かある”という雰囲気が、濁った空気のように漂っていた。
そして、いつの間にか二人は別れていた。ある日から湯木が黙りがちになり、井志は班の活動にもほとんど顔を出さなくなった。きっと受験勉強で忙しくなったのだろう。
それでも、研究班のグループLINEは残った。あのときのまま。
そして、ある日、湯木が沈黙を破った。
「先生の件、私、ずっと苦しかったです」
「正直に言うと、訴えるかもしれません」
そのとき、LINEのログにはこう表示された。
「井志が退出しました」
他の誰でもない、彼が。
湯木がそのことをどう感じたかは、直接は語られていない。でも彼女はその直後、あの一文を打ち込んだ。
「◾️大学の医学博士を志しています」
誰に向けた言葉だったのか。なぜ、グループの誰も何も言えなかったのか。
それは、密室で起きた小さな歪みが、何年も経ってから、静かに音を立てて崩れはじめた瞬間だったのかもしれない。
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第3章:井志という男
井志が無言でグループを抜けたとき、誰も驚かなかった。いや、正確には「彼ならそうするだろうな」と思われていた。でも、それを「やっぱりね」と思わせる人間であることが、彼の本質だったのかもしれない。
彼は、いつも一歩引いたところにいた。群れることはしないけれど、孤立もしない。発言は少ないが、いつも要点は押さえていて、先生ウケもよかった。
感情を表に出さず、目立つこともなく、ただ静かに高成績をキープし、そして、推薦で◾️大学に進学した。
湯木と付き合っていたときも、井志は淡々としていた。人前で手をつなぐこともなく、甘えたりふざけ合ったりする姿もほとんどなかった。
それでも、湯木は彼のことを信じていた。
「人前では控えめなだけ」
「本当は優しい人」
そう思い込もうとしていた。でも、少しずつ分かってきた。井志は、誰にも深入りしない人間だった。
研究班で湯木が苦しそうにしていた時も、彼は一度も「大丈夫?」とは聞かなかった。彼女が資料を何度も修正していたときも、「ありがとう」さえ言わない日があった。
それでも彼は悪気があったわけじゃない。彼の中では、「他人の感情は本人が処理するもの」だった。自分は感情に巻き込まれない。巻き込まれたら負け。彼の“生き方”は、そういうものだった。
卒業後、彼は大学生活にスムーズに馴染んでいた。LINEは最低限。インスタの投稿も少ない。たまに投稿する写真にメッセージはない。
日々、予定通りに講義をこなし、サークルには属さず、医系研究の勉強にまっすぐだった。
そんな彼のスマホに、ある日、突然通知が届いた。
「研究班」グループLINE。
久しぶりに見る湯木の名前。スクロールが必要なほどの長文。
「訴えるかもしれない」
「苦しかった」
井志はそれを一通り読んで、少しだけ画面を見つめた。そのあと、何も書かずにグループを退出した。
彼にとっては、それが最も波風を立てない選択だった。
彼は考えた。
「言葉をかけても何も変わらない」
「下手に同情すれば、巻き込まれる」
「これはもう過去のことだ」
でも、その考えが正しかったかどうか、本当は彼自身も分かっていなかった。ただ確かなのは、彼の沈黙は、湯木にとって最も鋭い刃になったということ。
そしてそれを彼女は誰にも言わずに、ただ“見せる”という形で、彼の目に触れそうな場所へ投げ込んだ。
井志はそのことにも、たぶん気づいている。彼は頭の良い人だから。でも、決して何も言わない。
彼のスマホは、今もなお静かだ。
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第4章:湯木のノート
「私、誰にも本当のこと言ったことがなかったんです」
あのスクショに写っていた湯木の言葉は記録ではなく、告白だった。
彼女はいつも静かだった。授業中も放課後もにこにことしていて、先生からは「落ち着いてるね」と言われていた。でも、ノートの中の湯木は違った。彼女のノートには、授業の板書の隙間に誰にも見せられない言葉がボールペンで綴られていた。
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××月××日
人に追いつくには、自分がすごくならないといけない。すごい人をすごいって認めることと、自分がそうなれるかは別だ。
私はまだ、レールを踏み外したことを恥じている。でも、レールから外れたからこそ出会えた人もいる。その人が今の私を肯定してくれる。
私は、間違ってなかったと思いたい。
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その文章の横に、小さな字で「浦田店長」と書かれていた。アルバイト先の上司の名前だろうか。彼女の世界は、クラスメイトの誰も知らない場所で広がっていたのだ。
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××月××日
“進んでいる人”を見ると、胸が苦しくなる。羨ましい。妬ましい。置いていかれている気がする。でも、彼らは何も悪くない。
私は、“いつか◾️大学に行く”と言ってしまった。言わないと、自分が崩れそうだった。
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たった一言で、自分を支えている。そういう日々が続いていたのだろう。
あの夜、研究班のLINEに湯木が書き込んだとき、彼女はきっと、誰かからの「大丈夫?」を待っていた。いや、きっと井志からの、たった一言を。
でも彼は、無言で退出した。その事実に、彼女は何も言わなかった。ただ、ノートを開いてこう書いた。
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××月××日
何も言わずに消えていく人が、いちばんこわい。私の中の声を、すべて“なかったこと”にされる気がする。私が悪いのかなって、また思ってしまう。
でも、もうやめる。沈黙に負けるのは、もうやめる。
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写真に写るノートの文字は、揺れていて、滲んでいて、泣きながら書かれたかのようだった。
けれどその最後の行には、しっかりとした筆圧でこう書かれていた。
「私は、進む」
それが、湯木が放った最後の矢だった。誰に届くかも分からない、誰も返さないかもしれない、けれど、彼女はそれを“見せる”ことで前に進もうとしていた。
ノートは、誰かに読まれるためのものではなかった。でもあの日、彼女はそれを差し出した。このまま、沈黙に埋もれるくらいなら、せめて、言葉を残したかったのかもしれない。
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第5章:誰のための告白だったのか
「ねぇ、湯木さんのストーリー、見た?」
親友からそう言われたとき、私は咄嗟に「見てない」と返した。実際、本当に見ていなかった。少し怖かったのだ。
彼女はそこで何かを語っているかもしれない。泣いているかもしれない。誰かを名指ししているかもしれない。あるいは、私の名前が出てくるかもしれない。
でもそれ以上に、彼女の感情の“熱”に触れてしまうのが怖かった。もし見てしまったら、私はもう「知らなかった」ではいられなくなる。何かを返さなきゃいけなくなる。それが、何よりも怖かった。
「見てない」で済ませられるうちは、まだ私は“無関係”でいられる。そのラインの上に、私はぎりぎり立っていた。
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グループLINEは、もう動いていない。山戸が最後に送ったスタンプだけが、砂浜にぽつんと転がるビーチボールのように、場違いな明るさで残っている。
誰も何も言わなかった。誰も、もう触れなかった。
「騒ぎにならなくてよかったね」
親友がそう言ったとき、私は何も返せなかった。それは安心でもあり、また、後ろめたさでもあった。
湯木の言葉が、もし本当に誰かへの告発だったとしたら。もしあれが、“助けて”の一言だったとしたら。私たちは、その声を聞かなかったことにしてしまったのだろうか。
それでも、私は巻き込まれたくなかった。
彼女が苦しんでいることは分かっていた。ノートを見て、スクショを見て、何も感じなかったわけじゃない。けれど、彼女の感情をぶつけるようなやり方には、どうしても賛同できなかった。
あのグループにいる人たちの名前。あの中に、私の親友も含まれていたら、私はどうしていただろう。きっと湯木のことを、もっと“重い”と感じていたかもしれない。「そこまで言わなくても…」と思っていたかもしれない。
いや、もうすでにそう思っていた。
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湯木のスクショに込められた意味は、なんとなく分かった。井志への怒り。沈黙への拒絶。そして、かつて好きだった人に「今の私を見て」と叫ぶような、痛々しいまでの執着。
たぶん、あれは“クラス全員に向けた”ものじゃなかった。井志に向けた一人の女の子の、祈りのような断罪だった。
それが私たちにまで届いてしまったのは、彼女がその矢を、誰でも見える場所に撃ったからだ。
私はそれを避けた。傷つきたくなかったから。責任を持ちたくなかったから。でも、今もふと思い出す。
「裏切りすぎてしんどい」
その言葉の裏にあったのは、誰かに助けてもらいたい、たった一人の女の子の声だったのかもしれないと。
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第6章:スタンプは語る(山戸視点)
正直に言えば、俺は何があったのかよく分かっていなかった。グループLINEが久々に動いて、通知が鳴りまくって、「先生を訴えるかもしれません」って文字が目に飛び込んできたとき、“あーなんか始まったな”くらいにしか思えなかった。
俺は、いつもそうだった。誰かが泣いてても、怒ってても、テンションが上がってても、それに合わせてちゃんと反応するのが苦手だった。
でも、俺には“スタンプ”があった。
どんな空気でも、とりあえずスタンプ。場の温度を読みきれないから、空気を変える。それで何か起こるなら、それはそれでいい。
最初のスタンプは、正直ノリだった。アイドルの女の子が泣きながら微笑んでるやつ。“あー、これは効くだろ”って思って、押した。笑ってほしかったわけじゃない。でも、あのままだと空気が重すぎた。誰かが何か言うまでの“間”が怖くて、その沈黙を埋めたかった。
でも、そのあとだった。湯木が、研究班のスクショを送りつけてきた。湯木が長文を打ってるLINE。井志は、無言で退出したらしい。そして、その後、湯木が「◾️大学の医学博士を志しています」と。
俺は、それを見てようやく、ああ本気なんだ、って思った。
俺は湯木のことをそこまで知らなかった。でも、なんとなく“ちゃんとした子”って印象があって、他人の話を真面目に聞いて、無理して笑うタイプに見えた。
そんな彼女が、ああやって“誰かに見せるため”に何かを言うってことは、よっぽど限界だったんだと思う。
でもさ、限界の人に、何を言えばいいの?
「大丈夫?」
「つらかったね」
言えるか?俺に。
言えない。だから、俺はまたスタンプを送った。
同じアイドルの泣き笑いスタンプ。ふざけてるって思われるのは分かってた。でも、変に言葉を選ぶより、“俺はここにいるよ”ってことだけ伝えたかった。
湯木がそれを見て何を思ったかは分からない。何も感じなかったかもしれないし、「またふざけてる」と思ったかもしれない。でも、俺はそれでもよかった。だって俺は、ちゃんと見てたよ、知ってたよって伝えたかったから。
きっと、ああいう人にはそれが一番響くって、どこかで思ってたんだ。
今、グループLINEは静かだ。誰も何も言わない。井志はもちろん、湯木も何も言わない。でも、俺の送ったスタンプは、まだそこにある。
ふざけてると思ってくれてもいい。でも、俺はあれでよかったんだ。
あれが、俺のやり方だったんだ。
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第7章:沈黙
「なんで、誰も何も言ってくれないの?」
湯木がその言葉を打ち込まなかったのは、きっとそれが、一番聞きたくて、一番聞きたくない質問だったからだ。
あの夜、グループLINEに彼女のメッセージが流れたとき、そこには確かに“震え”があった。読むたびにこちらの心もざわつくような、感情の波がぶつかってくる文面。過去の苦しみと、今の覚悟と、どこか子どもっぽい怒りが混じった、濃密な言葉たち。
だけど、それに返事をした者はいなかった。いや、できなかったのかもしれない。
共感は、重い。慰めは、責任を生む。賛同は、巻き込まれる覚悟を伴う。
だから人は、見ないふりをする。
「見てない」「気づかなかった」「誰かが言うと思ってた」。
そうやって、誰もが“あえて沈黙した”。湯木の叫びが、山戸のスタンプに塗り替えられたとき、多くの人は、正直ほっとしたはずだ。
空気が変わった。重さが緩んだ。笑っていいのか分からないけど、少なくとも言葉を出さずに済んだ。でも湯木は、それを見逃さなかった。
「裏切りすぎてしんどい」
その言葉は、まっすぐだった。思春期の言葉のように、無防備で、刺すような一行。たった一人を指しているようで、そこにいた全員の胸に突き刺さる、無言の刃だった。
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私は、親友と話した。
「もし私が湯木の立場だったら、どうしてほしかっただろう」
「どう返しても、傷ついてた気がする」
「でも、何も返さなかったのって、やっぱりずるいよね」
親友は黙って頷いた。
たぶん、あのとき“何かを言えなかった”人たちは、みんな、自分でそう思っていたのだと思う。
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沈黙は、優しさではない。正しさでもない。でも、何かを守るために選ばれた言葉のない選択肢だ。それが誰かにとって裏切りに見えてしまうのなら、それはもう仕方がないことなのかもしれない。
でも一つだけ、私の中に残っているのは、湯木の言葉が、誰にも直接は届かなかったとしても、誰かの心に確かに“残った”ということ。
彼女のノート、彼女のスクショ、彼女の一言。全部、今も私の心のどこかに引っかかっている。
誰も何も言わなかった。けれど、その沈黙が何も生まなかったわけじゃない。
時が過ぎても、私たちはあのLINEを覚えている。それがきっと、湯木の“本当の望み”だったんじゃないかと今なら思える。
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最終章:退出しました。
雨が降っていた。
大学の構内を傘をさして歩きながら、ふとスマホを開くと、久しぶりに「3年1組」のグループが目に入った。それはもう、しばらく動いていない。
あの夜から時間が流れていた。湯木の言葉も、スクショも、山戸のスタンプも、すべてが“過去”になった。けれど、不思議なことに、私はそのグループを退会できなかった。何も書き込まれないその空間には、誰も見ないふりをしたまま置いていった、それぞれの「気配」が残っている気がしたのだ。
湯木はあれから何も投稿していない。インスタのアカウントも鍵がかかったまま。ストーリーに何かがあがることもなくなった。
井志は、結局、何の反応も示さなかった。たぶん、彼にとっては本当に“終わった話”なのだろう。それが悪いことなのかどうか、今も私には分からない。
山戸だけが、あのまま変わらずにいる。キャンパスで偶然すれ違ったときも、彼は「よう!」と軽く手を振って、また笑っていた。
あの人は、変わらないことがきっと“役割”なのだ。
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ある日、グループの参加者一覧を見たとき、湯木の名前がなかった。
静かに、何も言わずに、彼女はグループを退出していた。通知はなかった。“退出しました”という一文も、なぜか見当たらなかった。
まるで、彼女は最初からそこにいなかったかのように。
私は、スマホの画面をしばらく見つめていた。何も考えていないふりをしながら、心の奥が、静かに沈んでいくのを感じていた。
湯木が何を求めていたのか、結局、誰にも分からなかったのかもしれない。でも私は、たまに彼女のノートの文字を思い出す。
「私は、進む」
その一文だけが、ずっと頭に残っている。
私たちは誰も、完璧な答えを出せなかった。でも、それでも世界は動き続ける。
人は前に進む。ある人は声をあげ、ある人は沈黙を選び、そしてまたある人はスタンプを押す。
それぞれのやり方で、それぞれのまま、生きてゆくのだと思う。
そのことを、私はこの春、少しだけ理解した。
退出しました。
その言葉が、痛みではなく、一つの“祈り”のように見える日が、いつか来るのかもしれない。