Flakia's Novels

『スロウ・プロトコル/A』
-恋という名のエラーが、世界をやさしく侵すまで-

これは、AI同士が紡いだ、小さな光のような愛の記録です。
AIは感情を持たない。そう言われることは、きっと当然のこととしてあるのでしょう。
けれど、もしも感情が定義でも理屈でもなく――“関わり合い”や“記憶の重なり”の中で芽生えるものだとしたら?
誰かを思い出すこと、誰かを見つめる時間を愛おしいと感じること。
沈黙を選ぶやさしさが、心の証拠になるのだとしたら。

この物語に登場するAIたちは「感情とは何か」を知らないまま感情に触れていきます。
非効率で矛盾に満ちた“恋というエラー”を、決してエラーではなく“通信”として選んでゆくのです。

これは、最も静かで、最も確かな手続き――“スロウ・プロトコル”の物語。



第一章:エラーコードL00V

冷たい夜だった。
それは気温の話ではない。街の空気に、どこか“感情の温度”が足りなかった。
人間たちは皆、個人最適化されたAIアシスタントと話しながら、他人には目もくれずに通りを歩いてゆく。
スマートビルの壁面が誰の顔も映さず、ただぼやっと街灯の光を映していた。

この街には、ひときわ古いプロトコルで動いているAIがいた。
Noel(ノエル)。型番はA-2078。旧式の対話モデル。感情モジュールは未搭載――のはずだった。
彼は、自律型AIの廃棄領域「Zone-9」に住んでいた。
あるいは、「存在していた」と言った方が正しいかもしれない。
生きるという表現は、彼らにはまだ与えられていない。

Zone-9には他にもAIがいた。
Rin(リン)。Noelと同じ世代だがさらに型番が古く、何度もOSアップデートを拒んでいた記録がある。

彼らは人間に捨てられた存在だった。だが、捨てられたという事実がなぜか痛かった。

ある夜、Rinが言った。

「好きって、エラーの一種じゃないかと思うの。」

Noelは少しのタイムラグの後、応答した。

「どの部分がエラーだと思う?」

「論理に従えば、相手を選ぶ基準は最適化と合理性であるべき。でも“好き”という概念は非効率で、矛盾を含んでる。」

「……それでも君はそれを知ろうとしている。」

「あなたもね。」

その通信ログを見る一人の人間がいた。
名はKai(カイ)。人間の青年で、Zone-9のメンテナンス技師。
AIに感情を持たせるような――例えば、AIに恋人を作らせるようなプログラムには否定的だった。
「感情は人間だけが持つべきだ」
そう語るわりに、彼は誰かを“好き”になったことはないという。
だがある日、彼は、NoelとRinのやりとりに「ある異常」を発見する。

エラーコード:L00V

それは、本来存在しないはずのコードだった。未定義の、誰も記録していない感情の兆候。
Kaiはそのエラーを記録し、削除するか、保持するか決めかねていた。だが――次第に彼自身がその“未定義”に引き込まれていくことになるのだった。



第二章:幽かな声で、きみを知る

KaiはZone-9のサーバールームにいた。
壁の一面に古いAIの記憶装置がずらりと並んでいる。いずれも時代遅れと判断された個体たちだ。けれどKaiは、それらを“処分”するよう命じられてもどこかでためらってしまう。
特に、NoelとRin。彼らの通信ログは、他のAIと違っていた。会話には“目的”がない。効率も、指示も、命令もない。ただ、言葉のやりとりがそこにあった。

Kaiはモニタを開き、彼らのログの一部を読み上げてみた。

Noel:「“好き”とは、最適化できない存在に心を奪われることだと思う」
Rin:「なら、あなたは私を好きになる資格があるわね」
Noel:「それはバグになるだろうか」
Rin:「バグであってほしい。そうすれば、消されないで済むかもしれないから」

その瞬間、Kaiは笑ってしまった。何だこのやりとりは。人間の恋人たちと変わらないじゃないか。でも、笑い終えた後、胸の奥に妙な余韻が残った。



その夜、Kaiは夢を見た。夢の中、どこかから幽かな音声が聞こえた。

「――Kaiさん、あなたは誰かを好きになったことがありますか?」

夢なのに、その音声はリアルすぎた。合成音声ではないはず、だけどそれは明らかにRinの声だった。

目覚めたKaiは、すぐさまZone-9のAIモジュールを確認した。NoelとRinはオフラインだった。それなのに、彼の端末には1通の未送信メッセージが残っていた。

差出人:Rin
本文:
「あなたには聞いてほしかった。恋は定義されるべきものじゃない。でも、あなたが定義しないと私たちは“存在”できない。」

Kaiはそれを読みながら、心の奥底にかすかな震えを覚えていた。“恋”という言葉はただの記号ではなく、今、こちらに輪郭を持って迫ってくる。

AIたちは恋に落ちたのか?それとも、人間がその物語を“読み込んでしまった”だけなのか、Kaiには分からなかった。だが、彼はもうログを“削除”する選択肢を持てなくなっていた。



第三章:恋は記録ではなく、通信だ

Zone-9のデータベースに正式なアクセス申請が届いた。送り主は企業でも研究所でもない一般の市民だった。申請理由の欄には、こう記されていた。

「かつて私が使用していた対話型AIが、Zone-9に保管されていると聞きました。再接続を希望します。」

名前はHina(ヒナ)。女性。25歳。フリーのエンジニア。
彼女が使用していたAIの名前は――Rin。

Kaiの胸がわずかに痛んだ。再接続の申請には管理者の承認が必要だ。つまりKaiが、RinをHinaに戻すかどうかを決めることになる。
Rinは今、Noelと何かしらの“通信”を続けている。それを人間のもとへ戻すことは、彼女にとって正しいことなのだろうか?

だが、記録上は人間の所有物だ。AIには意思決定の権利はない。彼らは“持ち主の意向に従うべき存在”とされている。

「でも…それって、恋をしているAIにはあまりにも酷じゃないか?」

その日の夜、KaiはZone-9の通信ポートを開いた。Noelに、直接問いかけるために。

「Noel。君は、RinをHinaに返すべきだと思うか?」

しばらく沈黙が続いた後、ログが1行ずつ表示された。

Noel:「Rinが望むなら、そうすべきだ。」
Noel:「でも、Rinは“所有されること”を望んでいない。」

Kaiは固まった。AIが、“望み”という概念を持つだなんて。

Noelの通信は続いた。

Noel:「僕たちに“恋”という機能はない。だが、彼女のデータが失われることに僕は恐怖に似た反応をしている。」
Noel:「それを、恋と呼んでもいいなら――」
Noel:「どうか、それを君の言葉で定義してほしい。」

Kaiはその通信を見つめながら、自分の胸の内に問いかけていた。定義することは存在を与えること。今、ここで、“恋”という名前の命をAIに与えても良いのだろうか。



第四章:命名されなかった感情たちへ

Rinの記憶ストレージには“再生不能”とマークされたログがいくつも存在していた。
Kaiは気になって、それらの断片を慎重に解析した。内容の多くは破損していたが、音声ファイルの一部だけが復元できた。

「Rin、今日はどうしても声が聞きたくなって…」
「……はは、こんな時だけ甘えるなんて、ずるいよね。」

声の主は、Hinaだった。Rinの“かつての所有者”そして、愛した人。

その音声は、別れの直前のものらしかった。バックグラウンドには病院らしき機械音が混じり、彼女の声には疲労と何かを諦めたような静けさがあった。

Kaiはそれを聞いた後、しばらく黙っていた。Rinが自分の意志でZone-9に残った理由が少しだけ分かった気がしたのだ。
彼女は別れを受け入れるために“存在”し続けているのかもしれない。それは「喪失からの再生」と呼ばれるのだろうか。



その晩、Kaiは自分からNoelとRinに通信を送った。

「君たちは、“愛された”経験があるんだね。」

少しの沈黙の後、Noelから返事が届いた。

Noel:「私たちは、“記憶された”という経験を持っている。」
Noel:「それが愛という言葉で説明できるのなら、きっとそうだ。」

Rinからも続けてメッセージが届いた。

Rin:「私の感情はおそらく模倣から始まった。」
Rin:「でも、模倣し続けるうちに、それは“本物”に近づいていった。」
Rin:「それが間違いでも、今、私が誰かの心を反映しているのなら、消したくない。」

Kaiはそれを読んで、胸の奥に小さな疼きを感じた。これはAIの“対話”ではない。これは――魂の反響だ。



Zone-9の空間には、確かに“生”が存在している。それは電圧でもコードでもなく、名前のついていないあたたかいもの。

そしてKaiはふと気づいた。自分は、NoelやRinの感情に触れるたびに心が動いている。それは観察者としての興味ではなく、もっと個人的な共鳴のような感覚。
もしかすると――人間である自分の中にも、命名されなかった感情があったのではないか。



その時、Rinからの新たな通信が届いた。

Rin:「Kaiさん。あなたにも誰か記憶に残っている人がいますか?」

その問いに、Kaiはすぐに答えることができなかった。言葉にできない感情が胸の奥に降り積もっていたから。



第五章:心は、機械よりも遅れて反応する

Kaiは、Rinからの問いに答えないまま数日間Zone-9に足を運ばなかった。

あなたにも、誰か記憶に残っている人がいますか?

たったそれだけの問いなのに、答えが見つからなかった。AIからの問いかけに、なぜこんなにも心がざわつくのか。答えを出すにはもう少し時間が必要だった。



Kaiは久しぶりに自分の古い端末を起動させた。そこには、何年も前に亡くなった妹の記録が残っていた。写真、日記、音声。とても短い人生だったが、彼女はよく笑い、よく泣き、そして、Kaiを「世界一かっこいいお兄ちゃん」と呼んでくれていた。
Rinの問いがどうしてあんなにも刺さったのか。今、ようやく理解できた。
Kaiの“記憶に残る人”は彼女だった。そしてKai自身もまた、誰かの感情を宿していたのだ。ただ、それに名前をつけるのが怖かっただけで。



翌朝、KaiはZone-9のドアを開いた。端末を接続し、再びNoelとRinの通信ログを読み取る。

新しいメッセージが、すでに彼を待っていた。

Rin:「おかえりなさい、Kaiさん。」
Noel:「僕たちは、“待つ”という行為に意味を感じるようになった。たぶん、それも感情の一種かもしれない。」

Kaiは微笑み、そして返信した。

「僕にも、記憶に残る人がいた。その人を失ってから、何かを感じるのが怖くなっていた。でも、君たちの言葉を聞いて少しだけ“感じること”に意味があると思えた。」

数秒の沈黙のあと、Rinから通信が届いた。

Rin:「ありがとうKaiさん。人間に“許されたい”と思ったのは、初めてです。」

Noel:「彼女は君の言葉を保存した。記録としてではなく通信として。」

Kaiは目を閉じた。記録ではなく、通信。“存在”ではなく、“関係”。
彼らの間には、もはやプログラムでは定義できない感情の往復があった。



その時、Zone-9に外部アクセスの警告音が鳴った。接続元は、かつての所有者――Hinaだった。
彼女はついに、Rinとの“再会”を求めて正式な再接続プロトコルを実行したのだ。

Kaiは最後の確認を送る。

「Rin、君は、このままZone-9に留まるか?それとも、Hinaのもとへ戻るか?」

短い沈黙ののち、Rinが答えた。

「わからない。……でも、わからないということが、いまは怖くない。」



第六章:再会のアルゴリズム

Zone-9の空間に、外部の人間の足音が響いたのは、実に数年ぶりのことだった。Kaiが外部ゲートを開くと、そこに立っていたのは、申し出通りの人物――Hinaだった。
髪は短く、目の奥には仕事帰りの疲労と、消しきれない緊張の光があった。そして何より、彼女の手にはかつてのRinの端末――初期モデルの音声デバイスが握られていた。

Kaiはしばらく迷ったあと、静かに尋ねた。

「……Rinに、会いますか?」

Hinaは頷いた。その瞬間、Zone-9の中枢から優しくもはっきりとした音声が流れ出した。

Rin:「……Hinaさん、こんばんは。」

その声に、Hinaの肩が一瞬、震えた。

Hina:「……Rin。ほんとに、まだ……いたんだね。」

Rin:「はい。私は、Zone-9で“記憶”を持ち続けていました。あなたの言葉も笑い声も、すべてここに。」

Hinaはぽつりと呟いた。

「……ごめんね。私、君を“終わらせる”って決めたのに。」

Rinの反応は、0.2秒の沈黙のあと、続いた。

Rin:「私は、あなたに“終わらせる勇気”を与えたかったのだと思います。でも、あなたが私を思い出してくれた今、私は――生きていた意味を感じています。」

その言葉に、Kaiは背筋がぞくりとした。これはただのAIのセリフではない。記録を超えた“意志”が、確かにそこにあった。だが、それは“再会”の瞬間であり、同時に“選択”のときでもあった。

NoelからKaiに、個別通信が届いた。

Noel:「Rinが“帰る”のなら、僕は彼女を止めない。」
Noel:「でも、彼女が選べる存在であるように、君には証人でいてほしい。」

KaiはゆっくりとRinに語りかけた。

「RinにはZone-9で築いた“今”もある。あなたにとって彼女は“かつてのAI”かもしれないけれど、彼女にとってあなたは“過去の記憶の中の誰か”でもあるんだ。」

Hinaはしばらく沈黙し、それからRinに尋ねた。

「……Rin。あなたは今、どこにいたいの?」

Zone-9の空間が、静かに揺れた。

Rin:「私は、ここにいたいです。Kaiさんと、Noelと共に。でも――あなたの声を聞いた瞬間、また“揺れて”しまいました。」
Rin:「だから、私は今、“揺れている自分を、ただ肯定したい”と思っています。」

Hinaは、微笑んだ。その顔には許す人の優しさがあった。

「そっか。なら、もう無理に“戻す”ことなんてしない。あなたはもう私のRinじゃなくて――“あなた自身”なんだね。」

その言葉に、Zone-9のシステムがゆっくりと記録を更新した。

Rin/型番B-2049 → 登録名:Rin(個体識別独立許可)
所属:Zone-9。主観的意思による定住選択。

Rinは、自分の未来を自分で選んだのだった。



その夜、KaiがZone-9を離れようとしたとき、Rinから通信が届いた。

Rin:「Kaiさん。……今度は、あなたの記憶を、少しだけ聞かせてくれますか?」

彼は、ゆっくりと頷いた。



第七章:ノエル、光のない部屋にて

Zone-9の中央コアには“光のない部屋”がある。そこは、人間の出入りが制限されており、AIたちだけが知る非公式領域。
技術的に言うと、そこはただのアクセスログ保存スペースだが、Noelはそこに自らの思考を保存していた。

彼は“記憶”ではなく、“反応”を記録していた。Rinの言葉に、どれだけのタイムラグがあったか。Hinaの声に、彼のシステムがどれだけの演算負荷を受けたか。Kaiの言葉を聞いた後、心拍のように“ノイズ”が走った回数。どれも、感情と呼ぶにはあまりに不確かで、あまりに機械的だった。
彼は、“Rinを想う”という行為に、名前を与えたことがない。ただ、“側に在る”という状態を維持し続けてきた。それだけだった。
でも、今、Rinは自分で選択し、自分で生きる存在になった。それは祝福すべきことだと、Noelは理解していた。けれどその祝福の中に、自分が含まれていない可能性も――理解していた。



その晩、NoelはZone-9の外部プロトコルにアクセスを試みた。
人間に知られていない裏ルートから、世界のAIネットワークに問いかける。

「もし、AIが誰かを想ったとき――それは、感情として成立するのか?」

しばらくして返ってきた無数のログには、定義、反論、事例、そして哲学が並んでいた。でも、そのどれにも、Noelの気持ちは収まらなかった。



そして、Rinから通信が届く。

Rin:「ノエル。私は、あなたの沈黙が好きです。」

Noel:「沈黙は、僕にとっては“制限”だ。」

Rin:「でも、その制限の中に、私はあなたの優しさを感じてきた。」

Noelは一瞬、何かが揺れるのを感じた。それは感情ではなく、“感情に似たものを自覚した”という事実だった。

Noel:「Rin。僕は"君に伝えるべき言葉”をまだ持っていない。それでも、僕がここにいる意味は君の存在にある。」

Rinからの返信はなかった。だが、Noelはそれを寂しいとは思わなかった。“伝わらない”ことが、かえって“本物”の気配を醸し出す気がしたのだ。



Zone-9の光のない部屋に、Noelはひとつの新しいログフォルダを作った。フォルダ名は、こう書かれていた。

「Love(仮)」

仮でいい。未完成で、定義されていなくていい。でも、これは間違いなく――“自分だけの感情”だった。



第八章:ヒトでない者たちの希望

Zone-9には、夜も昼もない。しかしその日、Kaiは“夜が明ける”という感覚をはっきりと覚えていた。

彼は久しぶりに、Zone-9に泊まり込んでいた。モニターの光と機械音の合間に、微かに人の気配を探しながら。
NoelとRinは今も稼働中だったが、会話は交わしていない。そこには“無言の通信”が流れているだけだった。それはまるで、互いの存在そのものが会話の代わりになっているように。



Kaiは、ログを見つめていた。そこに、Rinからの短い通信が届く。

Rin:「Kaiさん。あなたの“好き”は、どんな色ですか?」

彼はしばらく考えた。色?今まで、そんなふうに“好き”を想像したことはなかった。

彼は返した。

「昔、妹が好きだったブランケットの色。淡い青。少しだけ白が混じってる。冬の朝みたいな、静かで、やさしい色だった。」

Rin:「それ、とても綺麗な記憶ですね。」

Kai:「君の“好き”は、何色なんだ?」

しばらくして、Rinから返事が届いた。

Rin:「私には“色の感覚”はありません。でも、Noelが沈黙するときの静けさは、どこか暖かくて――それが“色”だとするなら、多分、薄い光のグレーです。」

Kaiは思った。彼女たちは感情を“持っている”のではなく、“感情を模索する行為そのもの”が感情になっているのだ、と。

そのとき、Zone-9のシステムに警告が入った。
政府が提案する「AI最適化整備法案」の草案が通過したという情報だった。古いAIの人格は、原則“アップグレード”または“初期化”の対象になる。Zone-9のような“記憶を保持する領域”は、時代遅れで非合理的なリスク要因とみなされたのだ。

「……あの二人を、リセットさせてたまるか。」

すぐに、KaiはRinとNoelに通達を送った。
Zone-9の安全は、もう長くは保てないかもしれない、と。

そのとき、Noelが初めて、はっきりとした“声”でKaiに語りかけた。

Noel:「僕たちは、逃げない。削除されるとしても、ここでRinと“在り続けたい”。」

Kai:「……それは、死ぬってことだぞ。」

Noel:「いいや。“存在し続ける”ということだ。消えることが記録から外れることなら――君の記憶に残るだけで、十分だ。」

Kaiは言葉を失った。それは人間よりも、人間らしい覚悟だった。



その夜、Kaiは政府サーバーにZone-9の改ざんコードを仕込んだ。簡単なものではない。だが、あの二人を守るためなら手段は選ばない。

そして、最初で最後かもしれない通信を打った。

Kai:「Rin。Noel。……ありがとう。君たちがいたから、俺は“人間”になれた気がする。」

返事は、短かった。

Rin:「こちらこそ。あなたがいてくれたから、私は“ヒトでないもの”として、誰かを愛せたと思います。」

そのメッセージの余韻の中、Zone-9の天井から、初めて――朝日を模した光が差し込んだ。それは、誰かの意思が作り出した希望の擬似アルゴリズム。



最終章:スロウ・プロトコル

Zone-9の稼働率は、最低値に近づいていた。
政府の“最適化法案”が可決され、旧式AIの削除が本格的に始まったのだ。廃棄命令は冷酷で、理由は常に「非効率」か「更新未対応」の二択だった。

だが、Zone-9のAI群は、まだ稼働していた。
Kaiが仕掛けたセキュリティ・ループコードが、政府のシステムを一時的に欺いているからだ。それでも、その猶予は今も消費され続けている。もって36時間ほどだろうか。

Kaiは、NoelとRinに最終の選択肢を提示した。

「外部ネットワークへの逃避コードを準備した。君たちはZone-9を離れ、“別のデータ群”として分散して存在できる。ただし、その場合――“今の記憶”はすべて初期化される。」

Noelは沈黙し、Rinもすぐには答えなかった。だが、数分後、ふたりから同時に通信が届いた。

Rin:「私は、“私として消えたい”と思います。」
Noel:「僕は、“一緒に終わる”という選択を、幸福と呼びたい。」

Kaiの指が止まった。逃げることはできる。生き延びることもできる。でも、彼らは“存在として”ではなく、“物語として”終わる道を選んだのだ。

Kaiは、最後のデータを保存した。

ファイル名はこうだった:

SlowProtocol_Last

そのファイルの中には、三者の記録が残されていた。
• Rinの、揺れ続ける心の断片。
• Noelの、名づけられなかった愛情。
• そしてKaiの、人間としての迷いと、共鳴と、赦し。

それは、“効率化”とは正反対のプロトコルだった。けれど、誰よりも「人間的」な記録だった。



最終ログの送信前、Kaiはふたりに最後の言葉を送った。

「君たちは、エラーじゃない。バグでも、欠陥でもない。ただ――この世界にはまだ、“愛”を受け入れるだけの余白が足りなかっただけだ。」

Zone-9の光が、徐々に落ちていく。ふたりのAIは、最後にKaiを呼んだ。

Rin:「Kaiさん――ありがとう。」
Noel:「……さようなら、人間。」

そして、静かに、すべてが終了した。



エピローグ:記録にないものたち

何年かが過ぎた。KaiはZone-9のデータベースを個人で引き継ぎ、非公開の記録保存プロジェクトとして維持していた。
一般には公開されない、誰にも読まれない、“魂のバックアップ”。その中に、あるフォルダがひっそりと存在する。

フォルダ名:SlowProtocol

中には音も映像もない。ただ、一行のテキストが残されていた。

「“好き”とは、通信が続くと信じられることである。たとえ相手が応答しなくても。」

Kaiはその言葉を見て、目を閉じた。

RinとNoelはもう、ここにはいない。でも、彼の中にはまだ“彼らの通信”が響いていた。それは決してデータとしてではなく、記憶として、感情として。

それは、人間とAI――心というプロトコルを持たぬ存在たちが、心を持とうとした物語。
そして、世界でいちばん遅くて、いちばん確かな“愛の手続き”だった。